< Decadent >

 僕の呼吸に合わせて、静かな音が聞こえる。
 ……僕はどこにいるのだろう。
 暗い。何も見えない。
 ……誰かいるの?
 僕は闇に向かって訊いてみた。
 するとどうだろう。
 闇の中から、何も見えていないのに、優しく僕の頬に触れたものがあった。
 手だ。
「修一さん」
 その声は岩下さんだった。
 抑揚のない声が、それでも僕には優しく聞こえた。
 ……岩下さん。
 すぐ近くに彼女はいる筈なのに、僕には何も見えない。
 ……明かりを。
 僕はそう言った。
 ここは何処なのだろう。
 しかし彼女は何も答えない。
 僕の頬に、手を置いたまま。
 僕の髪に、岩下さんの手が触れる。
 僕はどうしているのだろう。
「……先生」
 岩下さんの声が、少しだけ聞こえた。
 僕の頬から岩下さんの手が離れ、それは僕の胸の上に置かれた。
 先生…と、岩下さんは言った。
 他に誰かいるのだろう。
 ねえ、僕は何処にいるんですか?
「これが」
 中年の男の声が聞こえた。
 岩下さんがぴくりと反応した。
「第二回目の脳死判定検査の結果です」
 岩下さんは何も言わなかった。
 ……脳死判定?
「修一さんの人工呼吸器は、作動させたままにしておきます。呼吸器を何時止めるか
 は、ご家族の皆さんでお決めください」
「……」
 僕は……!?
 僕は起き上がろうとした。
 ……体が動かない。
「私が……」
 岩下さんが呟くのが聞こえた。
 医師には聞こえてなかったようだ。
「我々も精一杯のことは致します。しかし、このように呼吸をされていますが、これ
 も……人工呼吸器に頼らなくてはできないことなんです」
 岩下さん……?
「修一さんはもう、亡くなられたのだということをご了承ください」
「解っているわ」
 いつもより低い声。
 岩下さん……?
 僕はどうしたんですか?

 そのまま、僕と岩下さんと、ふたりだけの時間が過ぎた。
 僕は声も出せないし、何も見えなかった。
 けれど、岩下さんは時々そっと、僕の頬や髪や瞼や、いろんなところに触れてくれ
 た。僕はその度に、自分が存在していられることを実感した。
 僕は、僕はここにいるんだ。
「ねえ、修一さん」
 岩下さんが、呟いた。
「名前、どうしましょうか」
 ……名前?
「うふふふふ。貴方に似て、いい子に育って欲しいわね」
 岩下さんの手は、優しかった。
「そうねえ、明宏なんかどう? 一文字は、私から取っているんだけど」
 岩下さん。
「貴方のこと、愛しているのよ」
 岩下さん。
「だから、裏切ってあげたわ」
 ……岩下さん。
 もう……僕は。

 規則正しかった、空気の音が、静かに抜けていった。
「修一さん、大好きよ」

 僕の脳裏に、岩下さんの姿が浮かんだ。
 彼女はもう高校生じゃなかった。
 僕を見ていた。
 彼女の瞳に僕が映っていた。
 僕は、恐怖でいっぱいの顔をしていた。
 彼女の瞳の中で、僕が、トラックに引き込まれていくようだった。
 彼女は、少し微笑んだ。

 僕は幸せだった。
 今こうして、彼女の腕の中にいることが。
 鼓動が聞こえる。
 僕の子供のものらしい。
 岩下さんの中で、新しい僕が生まれるようだった。



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