「ただいま」
玄関のカギを開けて部屋の中に入っても出迎えてくれる人はいなかった。もともと高校生になっ
た時から「自分でなんとかしろ」と放任主義になった親だから、家にいたりいなかったりする。
家にいたとしても大抵帰ってくる時間が遅いから、生活時間帯が重ならない。
夕飯の準備がないということは、またどこか旅行にでも行っているのだろうか。そんなことを考
えながら部屋に入ると、まるでタイミングを計ったかのように携帯が鳴った。
「もしもし?」
『…』
「もしもし?誰だ?」
ガチャッ
「なんだよ…ったくよぉ!!」
せっかく出たのに無言電話だったことに腹が立った。悔し紛れに携帯を叩きつけるようにベッド
に置いて悪態をついた。
「風呂はいろ」
荷物をその辺に放ったまま部屋を出ようとした時、また携帯が鳴った。さっきのこともあるし、
出るのをやめて自動的に留守電にさせる。何回かのコールの後、メッセージが流れる。
『ただいま電話に出ることが出来ません。発信音の後に名前と用件を話してください。ピーッ』
なんとなく聞いていると、俺のメッセージが終わる間際に聞き覚えのある声が聞こえた。
慌てて聞きかえしてみる。俺の声に隠れるように入っているその声は、小さすぎてよく聞き取れ
なかった。でも俺は、この声を知っている。誰かの声のはずなんだ。
そう思って何回も繰り返し聞いてみる。
『話してくださ…新堂さん…ピーッ』
最後の最後、発信音の後に俺を呼ぶ声が入っていた。
「…え、み…?」
もう一度聞いてみるが、小さな声なのではっきりと聞こえない。でも、間違いなく恵美の声だと
思った。
「なんで…?」
呟きかけて思い出す。前にも似たような事があった。


恵美に何回も言われて俺が携帯を持ち始めたばかりの頃、番号は恵美にしか教えていなくて…。
しばらくして恵美が新聞部の合宿に行って会えない日が何日か続いた。その時、俺は携帯に慣れ
てなくてずっと通学カバンの中に入れっぱなしだった。恵美が合宿から帰ってくる日、久々に携
帯を出したら恵美の携帯ナンバーで無言の留守電が何通か入っていた。
数日後、それとなく聞いた俺に「声が聞きたかったの」という理由で掛けていたことを、真っ赤
になりながら話してくれた。
「じゃあ、さっきのも…?」
何もいわないままに切れた無言電話も、留守電になっていなかった携帯への電話も…。
みんな恵美だったのだろうか?
そう考えると体が熱くなってきた…いてもたってもいられない…そんな気分だった。
一体どんな気持ちで俺の声を聞いていたんだろう。
『意地なんて張っていない。別にそうなら俺はかまわないさ。でもな、後悔するのはお前だ。そ
 こんとこ覚えとけ』
日野の言葉が頭の中をぐるぐると回る。考えれば考えるほど、自分が情けなくなっていく。
後悔なんて死ぬほどした。何度も謝ってしまおうと思った。でも、意地が先にたって謝れないで
いた。意地ばかり張って、恵美のことなど少しも考えていなかった。
「恵美…ごめんな…」
もし恵美がいなくなってしまったら、俺から離れていってしまったら…俺は一体どうなってしま
うのだろう?
そう考えていくうちに無性に恵美に会いたくなった。
今まで張っていた意地も、強がりもそんなものどうでも良くなっていた。
床に置いたままの荷物から財布だけを取り出すと部屋を飛び出していた。


玄関で靴を履きかけたとき、すでに終電がなくなったことを思い出す。財布の中に免許証が入っ
てるのを確認すると、単車のキーをポケットから出した。恵美の家までの道は、頭の中に入って
いた。付き合い始めた頃、地図で何度も道を調べたから。
運転中も恵美の顔が目に浮かんだ。笑っていたり、拗ねていたりするその顔は、なぜかいつも泣
き顔になってから消えた。泣かせているのが自分だと思うとやりきれなくなった。
もう少しで恵美の家、というところまできて近くの自販機に単車をとめる。携帯を取り出すと、
少しためらってから恵美の番号を押した。
短い空白の後、コール音がなる。しばらくするとコールが途切れた。
『…もしもし?』
久々に聞く恵美の声。不覚にも涙が出そうになった。
『…新堂さん?』
なぜわかったのか。黙ったままの俺に恵美は確かめるように名前を呼んだ。
『新堂さんでしょ』
確かめるようにもう一度問いかける。
『どうしたの?こんな時間に』
まるで怒っているような。でも、実際には喜びを隠しているような…そんな複雑な声で聞いてく
る。
「留守電…聞いた」
俺の言葉に恵美が息を飲んだのがわかった。
「今、近くにいるんだ。出て来れるか?」
横暴な言い方なのはわかっている。だけど、そういう喋り方しかできないから…。
恵美の沈黙が怖かった。このまま電話を切られるんじゃないかと思ったとき。
「…わかった。ちょっと待ってて…」
小さな恵美の声が聞こえた。
恵美がやってくるまでのわずかな時間が何時間にも思える。気を紛らわすために自販機でコーヒ
ーを買った。


「新堂さん…」
振り返ると、白くなり始めた朝の空気の中に恵美が立っていた。
「…飲めよ。体冷えるぞ」
ついさっき買ったばかりの缶コーヒーを恵美に渡す。少しためらいながらも、素直に受け取る恵
美に気持ちが落ち着いてくる。
「なんですか?こんな時間に呼び出して」
コーヒーを一口飲んだ恵美がポツリと呟いた。
「留守電聞いた。おまえだろ。あれ」
「留守電なんて知りません」
「それでもいいや。会いたかったんだ、恵美に」
俺の言い分に、恵美が初めて俺の方に顔を向けた。
「なに…?こんな時間に呼び出した理由がそれ?ふざけないでください。ケンカしてたんじゃな
 かったの?会いたくなったからって…だからって、いきなり呼び出さないでよ!」
半分泣きそうな顔をしているくせに、口では強気な事を言う。今までならそんな恵美の態度に腹
を立ててケンカになっていたのだろうけれど、今はなんだかいとしく思える。
「ごめん、そうだよな。俺すっげぇ自分勝手かもしれないな」
「そうだよ…ずるいよ。新堂さん。今まで目も合わせてくれなかったのに…いきなり会いにきた
 りして…」
「うん、ごめん。気がつくとお前の事を目で追ってたくせに意地になってた。そのうち段々謝れ
 なくなって…お前にも会えなくなっちゃって…だけど結局、意地も何もかも捨てて会いに来
 た。やっぱ俺、お前がそばにいてくれないとダメなんだ」
いつになく素直な俺の告白に恵美は驚いた顔をする。
「…それ、新堂さんの我儘じゃないですか。結局、私の都合なんか考えてくれてないじゃない」
「でも、お前も会いたかったんだろ?留守電の声だけ聞くときは恵美が寂しい時だもんな。それ
 を思い出してここまできたんだ。理由がそれだけじゃダメか?」
俺を見つめる目に、涙が潤んでくるのがわかった。泣き顔を見たくなくて、衝動的に恵美のこと
を抱きしめていた。
「いつもそうじゃない…新堂さん本当にずるいよ。私が聞きたかった言葉…言っちゃったら…
 怒ってても許すしかないじゃない。意地張ってる私が馬鹿みたいじゃない」
俺に抱きしめられたまま、呟くように答える。
「ごめんな…恵美」
意地を張っていつまでも謝れなかったこと、長い間、恵美に寂しい思いをさせてしまったこと…
全てに対しての『ごめん』だから…。
「新堂さん、苦しい」
身じろぎした恵美に気付いて腕の力を緩めると、うっすらと涙をうかべた恵美の笑顔が俺を見つ
める。抱きしめているつもりで、守っているつもりで…でも本当は、この笑顔に俺は守られてい
るのかもしれない。それなら俺は、この笑顔を守れるくらい強くなろうと思った。
そしていつか恵美の全てを守れるくらいに…もう決して恵美の泣き顔は見たくないから…。
涙の後の残る頬に手を添えると、誓いのキスのようにそっと口付けた。
閉じていく恵美の目を見つめながら、俺は誓いを立てた。
もう言い訳なんてしない。もし離れ離れになったとしても、恵美を手放さないでいられるように
俺は強くなる。だから誰より近くにいてほしい。






終わり


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