水鏡

…最初は僕かな? はじめまして。細田友晴と言います。2年C組に在籍しているよ。 坂上君…って言ったね? 君は全然この学校の怖い話を知らないそうだね。 一般的な怖い話っていうのもあまり知らないのかな? 例えば鏡にまつわる話。 合わせ鏡っていう言葉を聞いた事は無いかい? 自分の死に顔が映る、未来の結婚相手が映る…色々な話があるけれど。 あとは…そうだな、ムラサキカガミ。 20才までに忘れないと死んでしまうっていう言葉だよ。 昔の鏡っていうのは今みたいに鮮明に自分を映すものじゃなくて、光を反 射させるだけで、顔は見えなかった。 何に使っていたのかって? …呪術だよ。古代の巫女が神との通信、戦闘に用いたのさ。 その時代、顔を映すものって言ったら水鏡が一般的だった。 水鏡も霊界との交信に使われたという話が残っている。 …ああ、前置きが長くなったね。 僕の話はこの学校にある水鏡の話なんだ。 坂上君は、旧校舎には入った事があるかな? …そう、無いんだね。立ち入り禁止になっているしね。 確かに、床はいつ抜けてもおかしくない程朽ち果てているし、とても埃っ ぽい。 腐葉土にも似た臭いの中、昼間でも薄暗い廊下に夏でも冷たい空気が張り 詰めているんだ。 …ああ、そうだよ。僕は入った事があるんだ。 その時の僕はとても急いでいた。 トイレに行きたかったのさ。 けれど、新校舎まではとても我慢出来そうに無かった。 そして僕は…入り口に張られたロープを潜り抜けて、旧校舎の一階のトイ レへと入ったんだ。 あそこは、井戸水を使用していてね。 一階だけは水洗トイレがあるんだ。 生憎、小用のトイレは壊れていて使えなくてね。僕は一番手前にあったト イレを使う事にした。 用を足し終えて、水を流す時…坂上君は視線を何処に向けている? 下じゃないかな? 僕もだ。その時、何気なくトイレの水を見ていたんだよ。 水流でしばらく揺らめいていたその水面に、僕の顔が歪に映っていた。 …揺らぎが止まった。 僕は息を飲んだよ。 どうしてかって? そこに映っているはずの僕の顔が、別人だったからだよ。 見間違いじゃないかと思ったけどね。 僕のこの顔とは大違いの、とても格好いい男がハッキリと映っていたよ。 驚く僕とは正反対に、無表情でね。 でも、もっと驚いたのはここからだった。 『代わってやるよ』 水面の男の口が動いて、そう声が聴こえた。 …代わってやるよ。 何の事か、さっぱりわからないよね。 僕は狭い個室の中、尻餅をついてただ男と見詰め合っていた。 男はもう一度繰り返した。 『代わってやるよ、3ヵ月』 次の瞬間、背中のドアが突然開いてね。 僕は強制的に締め出されてしまった。 その後、僕はひたすら走った。 足が取られそうになって、何度も転びそうになってね。 けれど僕はどうにか旧校舎から出られた。 …そのすぐ後のことさ。 バレーの授業があった。 けど、僕はさっきの出来事で頭がいっぱいでね。 ぼーっと立っていた。 「おい、細田!」 クラスメイトの声にはっとした時にはもう遅かった。 僕の後ろから、ネットの支柱がゆっくりと倒れてくるところだったよ。 激しい痛みが頭を襲った。 …痛過ぎて、気を失うほど。 次に気づいたら病院だった。 担任と、医者が何か話していたよ。担任が胸を撫で下ろす様子が見えた。 「ああ、気がつきましたか」 医者は僕に声をかけた。 怪我をしたのか、と頭を無意識に撫でていたよ。 …けど、何も治療した後は無かったんだ。 そんな僕に医者は言ったよ。 「事故状況から正直ヒビは入ってると思ったんですけどね。脳波、レント  ゲン、その他の検査も全て問題無し。コブすらないなんて、私も驚いて  しまいましたよ」 …僕が何を考えたか、わかるかい? 確かに僕は頭を打った時、ひどい痛みがあったのを覚えている。 けれど、医者はコブすら無いって言うじゃないか。 そう。旧校舎のあの男を思い出したんだ。 次の日僕は彼のところへ行ったよ。 半信半疑だった。 けど、やはり水面に男は現れた。 …側頭部から血をだらだら流したままね。 彼は笑っていたよ。 それから、昨日は聞けなかった話をしてくれた。 この世界とは異なる、もうひとつの世界の話をね。 彼はその世界で言うところのもう1人の僕だった。 『代わってやるよ。俺はお前だ』 そう呟くと、水が揺らめいて…いつもの僕の顔だけが映っていた。 信じがたい話だと思うよね? けど、実際に僕は彼に「代わって貰った」のさ。 それからの僕は、怪我どころか痛みも感じなくなったよ。 …言い辛い話なんだけど。 僕はたまに不良の生徒に呼び出されて殴られる事があった。 いつもなら、とても痛くて悲しい思いをするんだけど。 いくら殴りつけても蹴り飛ばしても、きょとんとしている僕に彼らの方が 気味悪がってね。向こうから近づかなくなった。 僕は細田さんに右手をあげ、ちょっとすみません、と呟くと慌ててハンカ チを口元に当てて咳き込んだ。 「ああ、この部屋蒸し暑いよね。悪いけど窓開けてくれるかな?」 メンバーの1人が窓を開ける。むっとした風が入ってきた。 違う。暑さなんかじゃない… 細田さんのグローブのような手ががっしりと僕の肩を掴む。 大丈夫かな?話を続けるよ。 怪我をしない生活っていうのは中々快適なものだよ。 誰だって痛い思いは嫌だよね。 時間はあっという間に過ぎて行った。楽しい時間ていうのはそんなものだ よね。 僕は毎日のように旧校舎の彼のところへ向かったよ。 トイレの中の彼は、…腐っていた。 髪も半分抜け落ちてね。 腫れ上がって真紫色に変色した顔面と、唇。 ところどころから黄色いような、緑色のような汁を垂れ流して、骨すら見 えていた。 そんな物凄い顔なのにね、彼は笑うんだ。 笑っていたんだと思う。拳を握るように、肉がくしゃっと中心に寄ってい たから。 『代わってやるよ』 彼はそう繰り返すだけだった… 細田さんは話を中断し、僕の顔を覗き込んだ。 「どうしたんだい?具合が悪いのかな?もうすぐだから我慢してね」 僕は俯いて無言で頷くのが精一杯だった。 細田さんのじっとりと湿った手が僕の肩を濡らしていく。 僕はすっかり忘れていたよ。 彼が最初に言った言葉をね。 覚えているかい? 彼は最初に「3ヵ月代わってやる」と言った。 期限付きだったんだよ。 僕がトイレにやってきたその日、彼はけたたましい声で笑ったよ。 肉が激しく震えて、ボロボロと剥がれ落ちた。 もう、絵の具をメチャクチャに混ぜ合わせたような色んな色の体液がだら だらと流れた。 彼の唇から白いものがこぼれていた。ウジだったよ。 それでも彼は、叫んだ。 『3ヵ月経った。次は俺の番だ…』ってね。 僕はゆっくりと、先程細田さんが握っていた方の肩を見た。 …鼻をつく、生ゴミのような臭い。 黄色とも緑ともつかない色の、ねばついた何か。 ハンカチを当てて、涙目になる僕に細田さんは顔を近づけた。 ニタニタと笑うその口からは、肩についた粘液と同じ臭い。 …腐臭だ。 彼は、そっと僕に囁いた。 坂上君は気づいちゃってるんだね? そう、あの日から僕が彼の代わりになったんだ。 向こうの世界の理がどうなっているのか、僕にはわからない。 けど、間違いなく僕は腐っているんだ。見た目が変わらないままにね。 ああ、一体どうなっているんだと思う?向こうの世界の僕はどんな風に過 ごしているんだと思う? 昼夜問わずひどい痛みが襲ってくるんだ。 今もそうだよ。いつでもそうだ。向こうの世界の僕は死なないのかなぁ? いつになったら解放されるのかなぁ? ねぇ坂上君、僕たちは友達だよね?僕がどうなっちゃっても、君はずーー ーっと友達でいてくれるよねぇ?? アイツが言ったんだ。この会でこの話をすれば助かるかもなって。 だから、やめないでね坂上君。この会は続けてくれよ? だって僕たちは親友だろう…?? 細田さんは、一気にまくし立てるとそのまま僕から離れた。 巨体が波打っている。 僕は口元のハンカチを固く握り、肩についたものを力任せに拭った。 困惑するメンバーの顔を見渡し、ゆっくりと口を開く。 「すみません、大分落ち着きました。…次の方は…」



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